地の利と歴史を生かしたまちづくりこそが枚方の生き残る道

岩本は、枚方市の歴史(とそこから生まれてきた地域資源)や、地の利(地理的優位性)を活かすまちづくりを行っていくことが、枚方市を発展させ生き残っていく道と思っています。

よく『枚方市には何もない』といわれますが、それはこの市の成り立ち(分割統治されてきた歴史と、異なる文化圏が合併した)が影響していると思います。魅力が、当たり前にあるために認識されていない部分があり、また知らされていない部分も多くあると思っています。

枚方市は京都・大阪・奈良に接するということで枚方市内それぞれ地域には、古代から要衝ならではの位置づけがあり、歴史がありました。枚方市の歴史については学校教育でも更に取り組みを進めていく必要があると思っていますし、一般質問等でもたびたび取り上げてきたところです。

第1回牧野地域歴史セミナー(交野ヶ原について)

さて本題。先日、牧野生涯学習市民センターでの第1回牧野地域歴史セミナーに参加してきました。交野ヶ原についてをテーマとして、講師は片埜神社の宮司である岡田広幸氏。150名定員のところ、ほぼ満席で今回のセミナーへの関心がうかがえるものでした。(枚方市内・市外の手を上げる場面がありましたが、多くは枚方市内の方でした。)

以下に当日の講演内容を記載します。館長のご挨拶の通り、館長はじめとする生涯学習市民センター・商店街・講師それぞれの熱意ほとばしる事業となりました。(岩本のパソコン入力のため、誤字等はご了承ください)

脇本館長のご挨拶

牧野といえば片埜神社。延喜式の頃からの建物。図書館としてずっとやりたかったこと。地域に根ざして地域と共にある文化施設

図書館だけが走っていてもダメ。地域歴史講座や崩し字講座を考えている。商店街(牧野を愛する商店会)の協力があった。地域で一緒に頑張っていきたい

山中(牧野愛する商店会)会長のご挨拶

生まれ育った牧野。牧野は歴史が深いところ。九頭神廃寺はすごいところ。

歴史の中での牧野の存在。その中でも片埜神社。1500年を誇る。埋もれてる。地域の方もあまりにも知らない現状、貴重な歴史資源を知ってもらいたい。商店会としてもやりたかったけどできなかったこと。脇本館長からの呼びかけ。殿二小学校の校歌にもある交野が原。今日勉強していきたい。

岡田宮司について

片埜神社宮司(昭和42年生まれ)各地周辺の神社宮司の兼任

講演内容

2000年分を1時間で話すのでかなり端折ることになる。交野ヶ原とは、枚方市・交野市の全域、寝屋川市の一部を指すとされる。

昔から『交野市の駅に降りたけど片埜神社はどこにあるか』という問い合わせがあったが、交野郡の名残が地名となったために起きている勘違いと思われる。

交野が原について

神話時代は古代は文献がないために(中国の魏志倭人伝などから日本を)推察するしかない。磐船神社(交野市の私市)の御神体は岩である。ニギハヤヒノミコトが降りてきた船、物部氏の祖。天皇家よりも古く、天孫降臨の伝説があるのは、天皇家と物部だけ。

物部氏が天の川流域を開発していった。大和政権より先に大和に入って開拓して言ったとされる。卑弥呼の時代(親魏倭王の金印出てきていない)、すでに物部シコウノミコトが開拓していた。伊加賀の地 天の川と淀川の合流の地、伊加賀御殿というお家があったとされる。

磐船神社について

  • (岩の中を入っていく)知られざる秘境。
  • 4世紀から古墳時代に入っていく。交野が原も古墳。
  • 4世紀初頭 交野市森古墳群 物部氏関連ではないかとされる
  • 4世紀前半 禁野車塚古墳群
  • 4世紀中葉 牧野車塚古墳群
    ※日本の古墳は墓碑がないので誰のお墓かわかりにくい

片埜神社の創建

(3世紀から4世紀)ノミノスクネ(相撲の祖)。垂仁天皇より賜った。出雲の素戔嗚尊を祀った

人柱だったのを人間をハニワに変えるべしと垂仁天皇に進言
※皇紀だと弥生になってしまうが、歴史的に裏付けが難しい。

車塚は前方後円墳である。天の川流域(物部)と穂谷川流域(土師氏)とでは文化圏が違う

土師氏の本拠地は羽曳野とか東大阪とか藤井寺とされるが、牧野地域にも一つ拠点があったと思う

野見宿禰の拠点は全国にあって、高槻にもある。宿禰は身分なので、1人じゃない。と想像する。

なかなか文献がないので研究が難しい。

6世紀
  • 540年ごろに欽明天皇。片埜神社は土師氏の氏神おそらく名前もなかった。土師氏の氏神社から片埜神社という名前を授かった。この頃26代継体天皇が即位。この頃、仏教の公伝があったとされる(国としての正式な伝来)お寺ができ始める。
  • 596年ごろ、瓦を焼いて四天王寺に供給していた平野山の窯跡(八幡)が残っている。今は普通の住宅になっている。公園に看板が立っている。
7世紀 飛鳥時代
  • 秦氏、交野野忌寸という姓を授かる。秦とは、(神様に献上する)機織りから出ている
  • 天皇陛下も蚕を飼っていて、1から絹織をしている。7世紀に九頭神廃寺の建立があったとされる(10世紀ごろに廃絶された)
  • (神仏混淆で一緒になっていた)付随していた久須須美神社は神社は明治時代まで残った。
  • 久須須美神社の社号標自体はまだ遺物として片埜神社の境内に残っている。片埜神社に合祀されている。
  • 牧野本町1丁目に公園がある。隅っこだけ。柱の跡が復元されている。色々な珍しいものが出土した。きららで枚方の歴史発掘調査2017で軒瓦など発掘品が展示されている。
8世紀
  • 交野郡の成立(大化の改新からの律令国家の成立がって、郡も成立。)
  • 平城京遷都で樟葉駅を設置。天の川から淀川に移っていく動きが出てくる。
  • この頃、交野が原で重要な動き、百済王鏡福。桓武天皇の僥倖が何回も記録として残っている。(風光明媚であったため鷹狩りをしていた?)全部で3回、コウシダンを築いたという記録(交野柏原)1つは杉本神社でないかとされる。場所が議論になる。
  • 片鉾の地が一つ、片埜神社でも築かれたと社殿に残っているが(明治以降のため)分からない
9世紀
  • 802東北の雄 河内国植山で斬られる。東北と大和政権(坂上田村麻呂)の戦い。
  • 元和元年に宇山から植山に変わっている。首塚と言われるところに埋めたという伝承。
  • 阪公園は神域(保安林)であった地域。神社には記録なし。(お寺が祀った?)
  • 放っておくと1200年続いてきたものがなくなるため、10年ほど前に顕彰碑を有志が建てた。毎年9月23日にお祭りをやっている。
  • 日本で唯一の宗教戦争、物部守屋が滅ぼされる・交野が原でも物部の勢力が弱っていくが、一定の勢力は残った。
  • 禁野(一般の人は狩をしてはいけない地域)という名称。惟喬親王。当時の旅行ガイドブックに記録。追い掛け(武官がつけるもの)をつけて狩をしている様子
10世紀
  • 延喜式(法律のようなもの)神名帳(お供えをした神社の一覧表)
  • 交野郡で神名帳に載っていたのは片埜神社と久須須美神社の2つだけ。広い交野郡の地でこの地域に2つがあるのは牧野の地の重要性を示している。阪地域の中に神社2つがあったということになる(久須須美神社のあったところも大字阪という場所)
  • 960年に片埜神社も土師氏の出である菅原道真を合祀した(亡くなった時に御神体とする)平安時代の後期に片埜神社から一宮に変更となった。(歴史としては片埜神社よりも一宮という社名がはるかに長い)
  • 神社の中にある建造物は一宮としか書かされてない。片埜神社と書かれてるのは社号標だけ。よく言われる、河内国の一宮というと、東大阪の枚岡神社。全国の一宮の集まりの一宮会発行の朱印帳があるが、国の一宮ではなくて、社名としての”一宮”である。
  • 河内の一宮神社であって、河内国の一宮ではない。
11世紀?14世紀
  • 禁野地域なども神域であった。各村から代表を出して決めていた。弘安2年、各村から出ていた中で不和(喧嘩状態)が出てきた。
  • 山の上地域の田中氏(藤原系列)山の上神社を作った。村の地域でも、村野神社を作った。
  • 平安時代に栄華を極めた片埜神社も南北朝(原弘建武の兵火)になって消失。古文書も焼けてしまって残ってない。
  • 室町時代中期南に復興の記録が残っている(遷宮儀典使・吉田家)
16世紀
  • 1559年 三好長慶・松永氏の兵乱により社殿荒廃。
  • 1583年 信長から秀吉の時代に。秀吉が大阪城築城にあたり、東北鬼門の方角にあった一宮を鬼門鎮護の社として寄付(寄進)をした
  • 1596年 社の復興
  • 1601 枚方宿の形成
  • 1602年 桃山時代 豊臣の秀頼による寄進大造営(現在の本殿や正門等
  • 全国の神社復興向かって、右に素戔嗚尊(スサノオ)左に菅原道真(神様から見た視点、一般に右が上位、左が位となる)
  • 明治の合祀令(近隣の10社)で上座が足らないため、急遽真ん中に三兼社をした。
  • 慶長7年、片桐且元の奉行により片埜神社の再興(同年12社も再興)
  • 全国の大造営。豊臣の資産を枯渇させるために徳川が動き、神仏に祈って豊臣家の再興を願ったともされる。
  • 本殿の西側に栗が彫ってあり、苔を表現するなど、桃山時代を表す精巧な技術
  • 赤門も慶長7年に造営。馬に乗ったまま境内に入れるように設計された。
18世紀

1797年 寛政9年 一宮神詞の碑を建立。3つの鳥居

  • 3の鳥居 今の鳥居
  • 2の鳥居 穂谷川のたもとにあった
  • 1の鳥居 京街道に突き当たるところ(阪神淡路大震災で危険ということで石柱だけ残した)
  • 文人サロン 岡田本房、その妻である逸、坂村医師の三浦蘭阪、舟橋村二ノ宮神社祀官の井上金橋など
  • 駐輪場(酒道場の裏)のあたりに残る石柱
  • 左 帝釈天道(片埜神社を指す)
19世紀
  • 神社にランク付け、合祀とする。明治以降に片埜神社に復し、一宮と併存させた。
  • 平安時代は野原の野(片野神社)だが、1885年に片埜神社に変更している。アサヒゴシンドウ殿下の御染筆をもらった時になぜかこの漢字になっていた。10社を合祀していて 大阪はすごい数の神社がなくなっている
  • 3倍くらいの数があったが、530くらいになっている
  • 4社(粟倉神社 三栗の神社 磯島の八幡神社 大垣内の百済王神社)は昭和になり復嗣している。

歴史は人の営み

それぞれの気持ちであったり心の動きが歴史を作ってきたと言える。

片埜神社では交野が原の中で、垂仁天皇の時代から場所は動いていない。

歴史を見てきたとも言える。研究の対象はまだまだある。

後世に伝えていくために、地域も一緒に学んでいってほしい。 

PS.セミナーを受け後、九頭神廃寺史跡公園に行って写真を撮影してきました。

枚方市の歴史(とそこから生まれてきた地域資源)や、地の利(地理的優位性)を活かすまちづくりを行っていくことが、枚方市を発展させ生き残っていく道と思っています。これからも学びを深めていきます。

牧野生涯学習市民センター
http://hirakata-sg.jp/makino

交野ケ原と片埜神社の歴史

◎神話時代
  • 片埜神社
    • 饒速日命、磐船神社の地に天下る。物部氏の祖。
  • 交野ケ原
    • 垂仁天皇朝に野見宿祢が土師氏の氏神社として、素箋嗚尊を祀り創建。
  • ◎3~4世紀
    • 片埜神社
      • 物部伊香色雄命による天の川流域の開発。肩野連、物部肩野連の祖。
      • 交野市森古墳群(4世紀初頭)
      • 禁野車塚古墳群(4世・紀前半)
      • 牧野車塚古墳群(4世紀中葉)
    • 日本
      • 239年卑弥呼、魏より金印、銅鏡100枚など授かる
    ◎5世紀頃?
    • 交野ケ原
      • 交野市倉治に秦氏定着。始祖、漠人庄
    ◎6世紀
    • 片埜神社
    • 540頃 欽明朝に土師氏の氏神社から勅により「片野神社」の社名を受け公の神
    • 交野ケ原
      • 507 継体天皇、樟葉宮で即位。
      • 樟葉平野山瓦窯、四天王寺等に瓦を供給。
    • 日本
      • 仏教公伝。日本初の本格的寺院、飛鳥社となる。
    ◎7世紀
    • 交野ヶ原
      • 倉治周辺在の秦氏。交野忌寸の姓を授かる。
      • 九頭神廃寺建立 10世紀には廃絶したが、久須須美神社は明治 2 年まで存続。
    • 日本
      • 白鳳時代、壬申の乱、大宝律令
    ◎8世紀
    • 交野ヶ原
      • 702交野郡の成立。河内国茨田郡から分離。平城京遷都に伴い樟葉駅設置。
      • 750百清王敬福、河内守~百清寺建立。
      • 783・787他 桓武天皇、交野ヶ原行幸・遊猟。
      • 785桓武天皇、交野柏原で郊祀壇を築き天神を祀る。
    • 日本
      • 710平城京遷都 
      • 712古事記
      • 720日本書紀
      • 784長岡京遷都
      • 794平安京遷都
    ◎9世紀
    • 交野ヶ原
      • 802東北の雄アテルイ・モレ河内国植山で斬られる。
      • 814「新撰姓氏録」に肩野連、物部肩野連、交野忌寸の名。
      • 860頃◎惟高親王と在原業平、渚ノ院に遊ぶ。
    • 日本
      • 新撰姓氏録
    ◎10世紀
    • 交野ヶ原
      • 927 延喜式・交野郡二座 片埜神社久須須美神社
      • 960年、菅原道真公を併祀。平安時代後期、社名を「片野神社」から「一宮」に改名。
    • 日本
      • 903菅原道真公逝去
    ◎11世紀~14世紀
    • 片埜神社
      • 1272 弘安2の御分霊。村野神社、山田神社創建。
      • 元弘建武の兵火により社殿等消失。
      • 室町時代中期に再興。遷宮儀典使・吉田家
    • 日本
      • 鎌倉時代1185~建武中興 室町時代1336
    ◎15世紀
    • 日本
      • 応仁の乱1467
    ◎16世紀
    • 片埜神社
      • 1532~ 天文~永禄年間、三好・松永の兵乱により社殿焼失、荒廃する。
      • 1583 豊臣秀吉公が大坂城築城の際、艮の方角にあった一宮を大坂城鬼門鎮護の社として尊崇、寄進をした。
    • 交野ヶ原
      • 1596◎文禄堤完成~京街道整備。
    • 日本
      • 1600関ヶ原の戦い
    ◎17世紀
    • 片埜神社
      • 1601豊臣秀頼公による寄進大造営。現在の本殿、正門等。
    • 交野ヶ原
      • 1602東海道枚方宿の形成。
    • 日本
      • 大坂夏の陣1615 江戸時代へ
    ◎18世紀
    • 片埜神社
      • 1797寛政9年・京街道に面し一ノ鳥居、一祠の碑建立。
    • 交野ヶ原
      • 一宮祀官・旗本水野候代官の岡田本房、その妻[逸]、坂村医師の三浦蘭阪、舟橋村ニノ宮神社祀官の井上金橋など。文人サロンを形成。
    ◎19世紀
    • 片埜神社
    • 1872明治に入り郷社に列す。この頃、社名を約800年ぶりに「片野神社」に復す。
    • 1885 社名の「野」の字を「埜」に改める。
    • 交野ヶ原
      • 1868 明治天皇、大坂行幸。枚方宿本陣に滞在。
    • 日本
      • 1867大政奉還~鳥羽伏見の戦い
    ◎20世紀
    • 片埜神社
      • 1909神社合祀令により近隣10 社を合祀(後、3社は復祀)。
    • 交野ヶ原
      • 1910京阪電鉄開通。
      • 1939陸軍禁野火薬庫が大爆発。
      • 1947枚方市 市制施行。1971交野市 市制施行。

    延喜式内社一之宮片埜神社(旧郷社)について

    • 大阪府枚方市牧野阪(旧河内国交野郡牧郷坂村)鎮座
    御祭神
    • 建速須佐之男大神(方除・厄除・病難除の神)
    • 菅原道真公(智恵・学問の神・天神)他九柱
    祭日
    • 春祭4 月15 日
    • 秋祭(例大祭) 10 月1 4 日 ・15 日
    • お火焚き祭12 月13日
    • えびす祭1 月9 ・ 10 ・ 11 日他
    文化財
    • 本殿・棟札(桃山時代・国指定重要文化財)
    • 正門(桃山時代・府指定文化財)
    • 東門(室町時代・府指定文化財)
    • 石灯篭(鎌倉時代・府指定文化財)
    本殿
    • 天徳4年 (960年)菅原道真公を併祀するにあたり、二間社(須佐之男大神と同列に奉斎)と する。
    • 慶長7年(1602年)の造営で、二間社を合いの間で連結した桧皮葺流造、朱漆塗の大型社殿に建替え。
    • 明治42年 (1909年)近隣諸社を合祀するにあたって神座が不足した為、合の間に御扉を増設し神座を設け、三間社とする。
      第一座御神 建速須佐之男大神 奇稲田姫 八島士奴美神
      第二座御祭神 菅原道真公
      第三座御祭神 事代主大神他六柱
    • 社名の変更
      29代欽明朝 (539- 571)に始めて社号を賜る「片野神社」
      → 平安後期「一宮」→ 江戸・貞享 5 (1688- ) 「一宮牛頭天王」
      → 明治初年(1868)「片野神社」→ 明治18 (1885)「片埜神社」

    コメント

    匿名: 岩本さん、いつもお世話になります。
    ありがとうございます。
    いま🚒阪(出)に勤務してますので勉強になりました。

    岩本:いわゆる学校で習ってる歴史と枚方市のこれまでの歴史がリンクするところがあって、もっとたくさんの人に知ってもらいたいと思いました!お疲れ様です。

    匿名: 詳細な記録、ありがとうございます。

    岩本:ありがとうございます。とりあえずの速記です。見やすくしたものを後日、WEBにアップします。